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特集・柔術 石川祐樹&渡辺直由インタビュー
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――2人とも30歳で黒帯になったということですが、ブラジリアン柔術が日本に広まったのが90年代の終盤からで、他の格闘技と違い、始めたときにはある程度の年齢に達していた。そして黒帯になったのが30歳。これから世界で勝とうという自分の腕に自信がついた時には、生活との兼ね合いが生じてきます。お二人は、今や道場を経営するようにもなりましたが、柔術と実生活の兼ね合いという部分では、どのように考えられてきたのですか。
渡辺 食っていくにはどうしないといけないのか――、これは格闘技をやっていく上で常に考えないといけない問題でした。大金が入るというスポーツでもないし、一つのジムに指導員が複数いては食べていけない、自分一人でやっていかないと無理だと、紫帯の頃から思っていました。僕は器用な人間ではないので、柔術に打ち込む、これで生きていくには道場を出すという思いでいましたね。もともと、指導も好きでしたし。それ以外に何かをやって食っていこうなんて思えないほど、柔術にはまってしまったので。
石川 柔術の道場を出そうと思ったきっかけ、そして一番の要因は良い練習環境を作るためでした。僕らは、行き場がそれしかない――と言うのか、全てを排除して柔術にかけてきたので、30歳になってからサラリーマンになるわけにはいかなったです。いわば、柔術のためにフリーターのような生活をしてきたので。ある意味、道場しかないという環境でもあったんです。なるべく早く黒帯になって世界と戦いたい、そのための環境を創りたい。1日中ずっと柔術のことを考えていることができる状況になりたいという焦りもありました。

普通の人が、青木(真也)君のことを知っていたり。ちょっと、嬉しいですね。(渡辺) ――柔術を諦めて、働こうという思いになったことはありませんでしたか。格闘家が、格闘技をやめて実社会に戻るには、年齢を重ねては重ねるほど苦労が多いと思います。
石川 僕はないですね。自分の場合は大学を二つ卒業していて周囲は高学歴の人間も多かったですし、そのように言われ続けてきました。親もカンカンに怒っている、勘当状態のときもありました。でも、柔術を辞めようとは思わなかったです。今もカツカツなんですが、これで食っていけると信じていました。安定した生活が欲しいとか、肩書とか気にする人間ではなかったですし、自分が好きなことをやっていきたいと思っていたので、何か変な自信があったのかもしれないです。格闘技という見方であれば、総合なんて収入が100倍ぐらい変化した業界だと思うんです。でも、柔術は全く関係ない分野なんで。
渡辺 本当に。普通の人が、青木(真也)君のことを知っていたり。ちょっと、嬉しいですね。総合の人気がないと、柔術の道場もここまで多くならなかったと思います。僕はもう、中学の頃からあんまり学校にも行っていなくて、石川さんのような純粋な気持ちだったわけでもないですね(笑)。柔術が好きだという情熱のような部分は石川さんと同じなんですが、自分は昔から破れかぶれみたいなところはあったんで。山奥でも無人島でも暮らして、それで飯が食えないなら死んでもいい――みたいな(笑)。冗談に取られるんですけど、本当にそんな感じで、好きなことをやろうと思っていたし。親もそういう生き方を喜んでくれる親だったんです。どうなろうと――お前が幸せなら良いっていう感じで言ってくれていたんで、プレッシャーもなかったです。
石川 良いですねぇ、ウチは地方公務員で何十年も勤めあげた親父と、そこに一緒にいる真面目な母親だったんで、「格闘技? 何だそれは?」っていう感じで。今までも1試合も自分の試合を見たことはないですし、DVDを持っていっても怖いからって見てくれないんですよね。家を出たのが18歳で、それまで格闘技をやっていなかったんで、親はいつまでも体重50kgちょっとの文学青年の自分という記憶で止まっているんです。家系に一人としてスポーツマンはいない――そういう思いは今もあるみたいです。雑誌に載ったりして、それを妹が親に見せると、一応は喜んではくれているみたいなんですけど。基本的には賛成はしてくれていないですね。

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